地震活動の周期について

地震活動の周期について

この日本において 二十一世紀初頭は地震の本格的活動期を迎えるであろう と予想されている 特に関東地方は 過去の記録(-1633年 1703年 1707年宝永 1782年 1854年安政 1923年-)から周期性の高さが指摘されている 最短で70.50年 最長で78.67年 マグニチュード 6.7〜8.2 の強い地震であったという  記録にあるところでは  1923年 関東大震災 - 7.9/ 142807名 - 1925年 北但馬地震 - 6.8/ 428名 - 1927年 北丹後地震 - 7.3/ 2925名 - 1933年 三陸沖地震 - 8.1/ 3064名 - 1943年 鳥取地震 - 7.2/ 1083名 - 1944年 東南海地震 - 7.9/ 1251名 -  1945年 三河地震 - 6.8/ 1961名 - 1946年 南海地震 - 8.0/ 1443名 - 1948年 福井地震- 7.1/ 3769名 - 1995年 阪神大震災 - 7.2/ 6435名等本州中部以西の各地に大きな被害を及ぼしている そしてその多くは 発生した時期から55〜60年を迎える これら以降にも新潟地震 十勝沖地震 松本群発地震 鳥取県西部大地震 伊豆諸島群発地震 等 により大きな被害を被っている にもかかわらず  この国の偽政者と官僚は 脆弱な都市構造に対して なにひとつとして学びとろうとはせず ただひたすらに自己の責任回避策を目論んでいるだけである 反論はあるだろう 阪神大震災以降 地震予知に関して 2000 億円が費やされたと・・・ しかし 予知は実用化されぬまま メカニズムの解明という基礎研究へとシフトされている事実は知らされていない  現時点で 時期 場所 規模の三要素を早期に知る手立ては 確実なものは「ない」といえるけれど その周期性については 誰もが認めるところである だとすれば その「警報」を出し 注意をもっと喚起することはできる筈である そして都市基盤の整備と同時に 補強策も講じるべきである 官僚は国家百年の大計を前提 に施策をなすべきであり 自己の票田や利得のために動く政治屋や自己責任も全うせぬ「金融機関・特定企業」のために動くべきではない 公的資金という名の税金投入策を講じる前になすべきことがあるのではないのだろうか と想う次第

2003/12/09

いまどきの住宅

いまどきの住宅

日本の住宅事情について「うさぎ小屋」と揶揄され どれくらいの日がたったのだろうか 洋の東西を問わず 一般庶民 あるいは市民と呼ばれるひとびとの住まいの品質 規模自体は いまもむかしもそう大して変わっていないように思える 大きく変わったのは工法や材料といった技術面そして社会的構造や経済的構造である しかしながら天変地異のもたらす被害状況等をみていると 住宅が それらの恩恵を充分に受けているとは到底思えないのである 世紀の変わり目にある現在 建築を取り巻く状況は非常に複雑化している 否 混迷化へ驀進している 東京都庁や商業建築に代表される巨大建築とプレハブや建売り住宅に代表される極小住宅 そこに垣間みられるものは 「空間の商品化」による「精神の霧消化と退廃化」である このことはなにを意味しているのだろうか 
住宅に限ってみれば かつての住宅に求められていた「〜に対する期待」という名の願望は 経済的不安要素に裏打ちされた「核家族化や小子化」 そして社会環境の「変容」により 社会の構成基盤としての構成要件にならなくなっている 家族の形態が変わり居住形態も大きく変わっているにもかかわらず「住宅」の似非品質を示す「nLDK」といった空間構成は十年一日 なにも変わっていない そうした状況の中で住まいの形態だけが変わりはじめている  民俗学的にも 社会学的にも「生老病死」にみられる「人が主の住まい」のあり方が変わってきている 現在 住居が本来もっていた「暮らし」に対する「対応力」は いま 住居以外の施設空間に委ねられつつある 「家族」という関係の中に組み入れられていた「夢や愛情」そして「団欒」といった私的な空間構成がすべて「手軽な安直さ」に魅せられて崩れつつある あるいはすでに崩れてしまっている 親も子も「拠り所としての住まい」で過ごす時間が少なくなり 「家庭」のもつ日常の生活過程が失われはじめている そして子どもたちの心は 社会的実質化が薄れ「隠居」化しはじめているのである 心と身体が分離し平板化されることで個性としての「私」が失われ画一化してしまっている状況下で住居に求められた顕示 所有 表現という欲望がもっていた公的要素と私的要素の同時性は 分断され そのあり場所を見失っている 
このことは精神と思考の可動域が狭くなってきていることの証左である 平安の昔から現代に到るまで この国には将来に対する政治も政策もなかったといえるけれど なにも変わらなかった訳ではない 元寇や下克上 そして黒船や原爆といった外事力により変革した既成事実をみればわかる ただその結果が 庶民 市民 生活者と称される国民にとって 益ある変わり方ではなかっただけである そのことは 地震や火災の被害のたびに規制と管理拘束が強化されてきた建物の世界においても同じである 
そこに住まう者の「内なる叫び」は忘れられ 棄てられているだけである 阪神淡路の大震災で被害を被った阪神地区 その中でも市役所が倒壊し 火災被害が拡がった神戸市は被害の中心自治体を標榜し「がんばれkobeフェニックス kobe 」を合い言葉に復興を目指している しかしそこでなされている都市行政は 住民の意志とは別のところで決定 選定されているのが実情である 震災被害を受けた公共施設を これ幸い! と復興事業に取り込み 周辺の道路を拡幅している それだけならば まだ我慢もできようが 整備されたということだけで土地評価額をかさ上げし 固定資産税率を上げようと試みている このことも「収入確保」の努力だと考えて 百歩譲って我慢しよう  しかしである 公設市場跡地を希望者があるとはいえ 6 坪から12坪の範囲で住宅地として分筆譲渡し その上に建つ違法老朽家屋を放置するその神経のどこに「住み良い町づくり」の思想 理念があるのか  そしてその地域を都市計画法の下 住居地域として指定し 密集を理由に防火 準防火地域にも指定し 法規制を強めている この狭小地でどのような住まいが建てれると言うのか ほんとうに住民の健康と文化的生活を念頭において都市行政を行っているというのならば なぜ再開発地区として指定し 日本国憲法で保障する生存権を踏まえた都市行政を行わないのか フェニックスなのはその「厚顔さ」である あの震災において 人・物・経済のすべての面で最も大きな被害率を被ったのは隣接の自治体である 断じて神戸市ではない 脆弱な都市構造に胡座をかき なにひとつ為しては来なかったツケを錦の御旗に「被害者として責任回避」することは赦されないことである と言わねばならないことが哀しい なぜにこのようなことになってしまっているのか 理由はただひとつ 官僚主導の行政と利権第一の政治屋の横行 そして責任を取らないですむ社会システムの肥大化にある 「寄らば大樹の陰」である ひとのいいおじいちゃん総理もいいだろう 冷めたピザと揶揄される総理もいいだろう そこにはまだ「味」がある だが「森の中のシンキロウ」と揶揄され How are youをWho are you と盟主国大統領に平気で話すような総理の国では 知事や市長が「同類であっても」致し方のないことなのかもしれない いまでは 官だけでなく民においても同様である 個人も集団も卑しき寄生虫と化している よい例が農協である日本の専業農家総数435000戸(1997年)に対して全国農協職員総数350000 人! これに国と自治体の農政関係職員数千人が 専業農家に生活基盤を置いているのである(ん?なバカなこと)

2003/12/07

ぶぶ漬けと茶漬け

ぶぶ漬けと茶漬け

嘗て 織田信長は合戦に出陣するにあたり かならず「ぶぶ漬け」を食したというが 「京のぶぶ漬け」といわれる事象はどこからきたものなのだろうか  ただ・・単純に?? という具合に想ったのだが「ぶぶ」と「茶」について すこしだけ考えようという気になった  そこでつらつらとおもん観るに  茶には「点てる茶」と「飲む茶」そして「食べる茶」があるが ここではたべる茶 すなわち「茶漬け」を考えることにする  
ぶぶ漬け 茶漬けと似たものに茶粥があるが なにが同じで なにが違うのか 栄養学や社会学ではなく食味道楽的に茶の間で考えようというのである それでは始めてみようか ぶぶ漬けに用いる飯は お櫃で冷めた少し固めの白米がいちばんである これにすこし熱めの白湯を注ぎ 一気に食す!(因に香の物は大根が合う) さすればこのぶぶ漬け「気」をこの身に漲らせてくれる だからこそ信長が好み いまに伝えられるのだろう そして反意として「これ以上の気を張らせないで」「はやく楽にして」という意味で別れ際に「まぁ・・ぶぶ漬けでも・・」という京のぶぶ漬け文化に転化し 「やんわり」とした生湯葉のような味わいをもって残ったものなのだろう 茶漬けは まだ温もりが残る白米に 濃いめの熱湯玉露をなみなみと注ぎ ふっくらとした紀州梅干しを乗せて ふぅ〜ふぅ〜と冷ましながら はふッ はふ と食するのがいちばんおいしい 梅干しの代わりに塩気の効いた鮭の切り身 若しくは棒タラでもよい この茶漬けは 食べた者になぜか「安堵と安らぎ」をもたらしてくれるから不思議である それゆえに 疲れたとき我が家で茶漬けがたべたくなるのだろう あるいはまだ柔らかみのある冷や飯に番茶を注ぎ 酒の香り漂う奈良漬けを友として食するも一考に値す ところが 茶粥は冷めた七分突き玄米を塊り茶といっしょに軽くひと煮立ちさせたものを塩昆布で食する 香の物や塩鮭の塩気とはちがった昆布の塩気が粥に風味を与える 因に 昆布は「こぶ」と云うが正しい
近ごろ 味付け澄まし汁を茶の代わりに使い「茶漬け」と称するが これは「ネコマンマ」にすぎない 巷間いうところ ただの「ぶっかけ飯」(土木界での正統ぶっかけ飯は 汁にめしを入れるもの)である このぶっかけ飯 胃の腑をただ満たすだけの言わば「餌」であり そこに真の「食のたのしみ」はない これらの違いはどこにあるのだろうか つらつら想んみるに「ぶぶづけ」には大地の気が凝縮されており「茶漬け」には太陽の気が凝縮されている そして「茶粥」には汐の香りが融けているように感じられる

2003/12/03

鬼門

鬼門

古代中国の地理書「山海経」に 中国東方数万里の海中にある度朔山に桃の木があるという その東北に伸びた枝の下に(その長さ三千里という なんという壮大さか!)「死者の霊魂が出入りする門」があり「鬼門」と称すとある そこに門番がおり 出入りする死者の霊魂を検問していた そして生前の行い善からぬものを虎の餌食とした というのであるが これがいつのまにか日本では「丑虎の方位」からか牛の角を持ち 憤怒の形相凄まじく虎皮の褌を締め 鉄棒を携えた「赤鬼・青鬼」に生まれ変わっている そもそも日本の文献で「鬼」の字の登用のされはじめは「出雲国風土記」であるという 以降「日本書紀」「和名類聚鈔」「箋註和名類聚鈔」「万葉集」等に散見されるが 分類すると神道系 修験道系 佛教系人鬼系 に大別できる(鬼の研究 - 馬場あきこ 著)また解字学的に「鬼」字を解明していけば 招魂によって帰ってくる死者の魂であり そしてその「音」は「シ」であるという 「シ = 死」であるため忌み嫌うならば 神棚 仏壇も忌み嫌われ 放逐されてしかるべきである でなければ「ジコチュウ」である  因に 徳川家康も明治天皇も そして江戸の庶民たちも「鬼門」の忌み性を信じず笑い飛ばしたという にもかかわらず 此の国では根拠もなく いまだに住まいにおいて「家相」だ「風水」だと騒いでいる! 笑止千万!と「笑い飛ばしたい」けれども 昭和五年 東京市参事会は市長執務室が鬼門に当たるとして移転を決議しているのである そのことを問題にすることなく素通りさせてしまう「体質」が案じられる  日本は「神の国」だと宣い 皇国臣民を教育するのもいいけれど その前に自身を教育すべきだと信じる  なにも皇国史観に染まっている訳ではないけれども「壱、汝 至誠に悖りしことなかりしか ・ 貳、汝 人道に悖りしことなかりしか ・ 参、汝 信義を忘るることなかりしか」という日清 日露の頃の日本海軍訓の一節が想い起される 「うまいもんは うまい!」というC Mのように「良いものは良い 悪いものは悪い」と はっきりさせなければいけない 正直者が報われる世の中でなければとしみじみ想う訳

2003/12/03

屋根の不思議

屋根の不思議

此処に仏の住む国あり と覚えた仏教伝来(552年)の頃 隣国の百済 高麗よりもたらされた唐瓦葺 この男瓦(平瓦)女瓦(丸瓦)を組み合わせ用いる技法を本瓦葺きという 天平の昔から江戸寛永の末まで 堂々としたその重厚さは伽藍 城郭建築に用いられ いまに残る  難点はその重量と工費である  一六七四年 三井寺瓦師 西村半兵衛発案の桟瓦がその難点を乗り越える 耐久 品質 施工 工費等の総合力で 屋根に爽やかな軽やかさを与えてくれたその連なりの美しさは さざ波のような連続した統一感を生み出している このように屋根は葺く材料によってその印象がずいぶんと違ってくるものである  樹齢六百余年とされる室生寺の檜材は 年輪年代法により伐り出し年が七百九十四年と判定され 創建が八百年頃と想定される 江戸初期の補修工事において挽き割り板葺き屋根から優美な檜皮葺きの屋根に変身したのである  以後この優美さ故か 女人高野として篤い信仰を受けている 日本を代表する屋根といえる檜皮(ヒワダ)葺きは 檜の樹皮の中間層(真皮)を重ね合わせて葺いたものであるが その材寸法は 平板で厚さ五〜六厘 幅五寸 長さ弐尺五寸 これを参分毎ずらしながら下から上へ葺く 葺き師は このか弱い材を緻密な手わざと行程でもって洗練された優美さへと変えていく 似たものに柿(コケラ)葺きがある こちらは材を年輪に沿って曵き割った薄板をさらに薄く削ぎ 檜皮 同様に葺いていくのだが 厚さ一分 幅四寸 長さ壱尺の材を長板葺きに重ね 竹釘で止めている 素人目には檜皮葺きと区別はつかないけれど 葺いた屋根の表情が「おとなしい」檜皮にくらべ どこかしら「やんちゃ」な感じがするのがおもしろい  因に 檜の表面層は鬼皮という これは栗とおなじであるが 栗の中間層は渋皮という いとおかしけるかな  
また違った趣と印象を与える屋根に 原風景として蘇るわらぶき屋根がある 正確には茅葺き屋根という チガヤ ススキ ヨシの茎を束ね 積み重ね葺いたものであるが 葺き厚さが弐尺以上もあり 大らかな起り(ムクリ)をもっている そのため見るものに常ならざる量感をもって迫ってくる これは共同体としての村社会のもつ逞しさによるものなのかもしれないけれど 求心的な凝縮世界の魅力がそこにはある いずれにしても屋根とその葺き材は 風土と社会と技術が時のながれの中で せめぎあいながら結実した意識の証なのかもしれない そして太く硬い樹木の皮が やわらかな優美さを醸し出す一方で 細くかよわい草木の茎が 骨太な底力をもたらす不思議を感じる 屋根は ひとびとが暮らしの中で育み 守り続けてきた精神のヒエラルキーそのものだと想うのは 自分ひとりだけであろうか

2003/12/03

甍の静けさ

 甍の静けさ


 寡黙なるものの代表に屋根の甍がある。福田平八郎の「雨」を観るまでもなく、 屋根の背負わされた宿命は自然と人のはざまに在る臨界性ゆえ、その情熱は大胆さと緊張感の中で予期せぬ感動を 花咲かせる。たゆやかな棟反りがもつ穏やかな東寺講堂。一途な想いを抱きつづける東福寺通天橋。男瓦、女瓦の 交わりの凛々しさを放つ知恩院本堂。これらの静謐な無名性は、ひとびとの心の中に清々しい「絹の刻」をよみが えらせてくれる

1996/10/15

木遣り

木遣り


 和漢三才図絵や人倫訓蒙図彙などには大木を大勢で曳いている様子が描かれてる。この木を運び 移動させることを「木を遣り渡す」といい「木遣」という言葉ができている。 木遣唄は 木を伐り出すときや重いものを動かすときに唄われ作業唄が 建築の基礎を固める地形(ちぎょう-地業と記されることが多い)のための作業唄として鳶職の木を遣る唄となったと 鳶頭政五郎覚書・とんびの独言・山口政五郎著 角川書店刊 に記されている。 鳶の粋と木遣りの息が合って良い建物ができる。

1996/11/15

炉縁

炉縁



 南方録に「炉というものは 元来 草庵の茶を象徴するもので 紹鴎の時代には  未だ炉の寸法は一定せず釜の大小により切られていた」とある。 だが千利休はすでに堺の茶会において1尺4寸の炉を用いた、と今日伝えられている。 しかし利休居士が求めた世界、野心はここにはない。醒めた冷気の中で、杉木地の炉縁 に囲まれた天命釜は、その荒々しい肌の温もりを静かに漂わせている。何も語らぬ 炭の白灰だけが時空を駆け、利休居士と対峙できるのかもしれない、と想う。

1996/12/15

石積

石積



 日本の地勢が生み出した文化のひとつに石垣がある。愛媛県北宇和郡津島町北灘・村全体 が石垣で埋め尽くされ 石垣村と称されるほどの石垣集落がある。石積みの古法には乱層積み と整層積みがあるけれども 石垣畦 石垣土手 石垣農地 屋敷石垣 石垣塀 石垣壁等と いった石積みの無名性には 石工たちの技量と趣向に賭けた情念が乱層野石積みの形で今も 残されている。日本は木の文化だといわれているが 西洋の石積み文化に対比するなら 石垣の文化と称するべきではないのだろうか。

1997/01/15


 「鉄壁の守り」等と例えられる壁には構造的に強固なものとしての意味合いが強い。しかし、日本においては壁と言えば「塗るもの」つまり「左官技術」によるものという認識が普通である。それ故この国の建築は 「壁に耳あり」 と例えられるように、その意匠性と非耐力性のみを競うが如く追求してきた。そして仕上げと強度が両立しない特異な発展を遂げてきたのである。この意識の落差が建築に対する存在性を曖昧にし、建築としての構造的脆弱性を隠蔽してしまっているのではないだろうか。

1997/02/15


 藁 筵 菰 藺などを土間に敷き暮らす生活から 床の上で暮らし始めると 座るところにだけにこれらを敷くようになった。それらは「たたんでおく」ことがことができることから「たたみ]と呼ばれるようになったと 民俗学者 宮本常一は教えてくれる。畳 おもての材料藺草には二種類あり 丈が長く断面が三角のものを「琉球藺」 丈が短く丸く細いものを「安芸 備中藺」といい 前者は丈夫で凛々しく 後者は上品で美しい。そのいずれもが産地の気候風土の特徴をよく表している。

1997/03/15

大工

大工


 京都 一条堀川にかかる一条小反橋 人呼んで「戻り橋」渡辺綱が鬼女に出会ったという橋である。西鶴諸国ばなしによれば この橋のたもとに「顔も三寸の見直し 中低なる女房 手足逞しき 大工の上手にて世を渡り」し女性大工がいたとある。ことの真偽の程はわからないが 御所の奥向き男子禁制の場所の修理仕事を専属にしたという。「都は広く 中略 何とて女を雇ひけるぞ」の問いに「見せぬところは女大工」と答えている。宜なるかな。女性たちよ が・ん・ば・れ!!

1997/04/15

職人の変化

職人の変化


 技術伝達の上に成り立っていた職人社会が持ち続けてきた道義的 倫理的な価値観が揺らぎはじめている。「なんの事アねえ、仕事さへ迅く為れば当今の職人は良いんだ、然り、現今の職人は腕も技量も之を要せず、出入先に気を兼ぬるも之を要せず、唯だ敏速に其の工事を胡魔化し去れば即ち職人の能事了る、ああ工業前途の為に喜ぶべきか、喜ぶべからざるか」 この嘆きは 今から百年前の明治31年に建築職人の調査をした横山源之助翁のものである。現実的 功利的に賃金の多寡を問題にしはじめると技能者はいなくなる いまも昔も・・。

1997/05/15

職人の話の本

職人の話の本


職人          竹田 米吉   中公文庫
江戸建築叢話      大熊 喜邦   中公文庫
職人衆昔ばなし     斎藤 隆介   文春文庫
職人          永  六輔   岩波新書
日本の職人       吉田 光邦   角川選書
職人の世界       NHK取材班  日放出協
フィレンツェの職人たち 朽見 行雄   J T B 
職人達の西洋建築    初田 亨    講談社
とんびの独言      山口政五郎   角川書店
木に学べ        西岡 常一   小学館
アメリカ職人の仕事史  森   杲   中公文庫
建築をつくる者の心   村野藤吾    なにわ塾

他にも沢山あるけれど 一度に読めるはずもなく まづはこのあたりから読んでみるの一考

1997/06/15

柱の話

柱の話


 いざなぎ いざなみの婚姻に際して建てられたのが「天の御柱」 伊勢神宮正殿や出雲大社  本殿の中心に立てられたものが「心の御柱」 出雲大社の柱は出雲国造神賀詞にあるように 「岩根御柱」とも称される この他にも諏訪神社の「諏訪の御柱」があるけれど そこに求められた精神性は 時代や社会の変化に動かされることなく今も連綿と引き継がれているように見える しかしそこには 空間や精神をこの宇宙と繋げようとする「聖なる」遠心性や求心性はすでにない 残されているものは 壊された大地の呪縛から逃れるための道具としての「柱」でしかない かつて「大黒柱あるいは太極柱」と表記されるダイコク柱に与えられた世界は もう神道十二部書の心御柱記や田宮仲宣の橘庵漫筆にしかない 忘れられた中心性と精神性を取り戻すためにも 「柱のきずはおととしの五月五日の背くらべ・・」といった日常の暮らしの中で「細く」ともこころの依り代にすべき柱をいま持ちたいと思う 。

1997/07/15

眼について

眼について


 建築 雌の視覚 長谷川 尭 相模書房 / 眼の隠喩 視線の現象学 多木浩二 青土社 / 見ることの狂気 バロック美学と眼差しのアルケオロジー グリュックスマン ありな書房 / と ゲーテのイタリア紀行の四冊の本は 眼で見ることの大切さを教えてくれるいい本である これらの本は記憶のもつ透明な存在性を解釈の可視性でもって 視覚の彷徨の方向を確認しようとしている 長谷川 尭は B・タウトの「眼の悦」「眼が考える」「眼の文化」といった表現から内面世界の身体化による空間の視覚的力学を・・・ゲーテは「自分の眼をばまともに見開けば 仮にも眼で見えるものなら何一つ見落とすことはない」という表現でもって 内的な真実性と必然性を持つものの世界を語っている グリュックスマンは「視覚の無意識」がもたらす精神諸相を 狂気を主題に時間の特異点がもつ実存性を教えてくれる 多木 浩二は 視線がもつ「まなざし世界」を文化と非文化という隠喩的地理空間のなかに再構築しようと試みている 目が見えるうちに「眼のもたらしてくれる世界」を考えようか。

1997/08/15