解題
    ウィドゲンシュタインはノーマン・マルコムへの手紙の中で次のように書いている。

    「哲学を勉強することは何の役に立つのだろう。もし論理学の深遠な問題などについて、もっともらしい理屈がこねられるようになるだけしか哲学が君の役に立たないのなら、また、もし哲学が日常の生活の重要な問題について君の考える力を進歩させないのなら、(中略)哲学を勉強するなんて無意味じゃないか。御存知のように、”確実性”とか”蓋然性””認識”などについて、ちゃんと考えることは難しいことだと思う。けれども、君の生活について、また他人の生活について、真面目に考えること、考えようと努力することは、できないことではないとしても、哲学よりも、ずっとむずかしいことなんだ。その上、こまったことに、俗世間のことを考えるのは、学問的にはりあいのないことだし、どっちかというと、まったくつまらないことが多い。けれども、そのつまらない時が、実は、もっとも大切なことを考えている時なんだ。
    (「ウィドゲンシュタイン」ノーマン・マルコム著 より)

    我々が今向き合っている「建築」とは、一体何なんだろう。それは、我々の進歩的し続ける文化を結実させた、実りある成果なのか。それとも、ある日、忽然とこの世に現れ、その後ずっと我々を物理的にも精神的にも支配し続けるものなのか。現代の建築家は、これらの問に答える義務がある。それも、自分や他人の生活について考え尽くす努力を行った上で。
    しかし、どうだろう、この荒涼とした我々の言説の地盤は。「建築」についての、もっともらしい理屈が大手を振って跋扈している。計算可能なバーチャルリアリティーが、たとえこの世界を覆いつくすとしても、バタイユが問題とする、人間の根底に巣くう非人称の恐ろしげな力(フォルス)に目を向けなければ、文化・歴史・人間・知といった人間の精神活動から「建築」へとは通じてゆくことができない。
    [根源への遡行] それは、自分の中にある非人称の力(フォルス)を見つめることであり、「建築」というものが負わされた「物(もの)」性を解体してゆくことになろう。 

平成通り抜けって何?


平成通り抜けって何?


 今日(1月9日)大阪で「桜の会・平成通り抜け」事業なるものがスタートした。小泉首相が来賓として参加し、植樹式が毛馬桜之宮公園で行われた。淀川河川敷を中之島まで桜並木で整備するということらしい。大阪府知事、大阪市長、関経連会長などが記念植樹をしていることから、大阪の官財界が後押ししているのだろうが、この事業ってどれくらいの大阪市民が知っているのか?小泉首相は、市民一人一人の参加は民間主導を提唱している小泉改革の発想だと挨拶したらしいが、市民からの募金をもとに推進する事業の割には、一体誰がどの様に市民のコンセンサスを得たのだろう?

 現在低迷している大阪の経済を活性化させるために、大阪の魅力を内外にアピールしようと考えることは悪くない。だが、数日前の新聞記事にもなっていたが、堂島川にリアルト橋(に似た橋)をという発想も今回の桜並木と同様の貧困さを感じる。大阪 → 水の都→ ベネチア → リアルト橋 という連想ゲーム程度のアイデアで、勉強会やら審議会やらに予算をつぎ込んでいるのかと思うと情けないやら悲しいやら。どこかにあるような名所を再現したとしても、その土地の歴史に根ざしたものでなければ、魅力は決して長続きしない。ディズニーランドのように資本を投下し続けることができたら話は別だけれども、大阪の自治体や財界にそのような力があるようにも思えない。野球球団ひとつも誘致できない文化レベルの大阪官財界は、むしろ話題を提供していればそろばん勘定が良くなると考えているだけなのじゃないだろうか?

 桜の記念植樹に、21世紀を背負う意味で2000生まれの幼稚園児が約30人が参加したらしいが、市民が参加すると謳うなら300人くらいが植樹する大イベントにして欲しかった。その幼稚園児が成人する頃には、日本の人口構造も変化して大変な時代になる。はたして小泉首相は、幼稚園の子供らを見ながら、未来の日本への責任というものを十分自覚していたのだろうか?
 同じ夕刊の広告欄には「親同士の代理見合いフォーラム 開催」というのがあった。いまやNEETの子供達を抱えて、親たち同士がお見合いをするというおぞましい時代になっているのだ。恋愛という人間の根源的な感情が希薄になっている人達が増えてきていることは、何か殺伐とした現在の日本の状況とリンクしているように思える。確かに、結婚していない人に問題があるというのではない。ただ、物質的に豊かになっていくことで、他人ばかりでなく自分に対しても感情の振れを感じられない人が増えているのではと思う。今後日本は、物質文明と教育や文化という人の精神面を両立させていくことが急務である。そのためには、若い人達に積極的に参画させるようなシステムが必要だ。お役所が旗を振っていれば、嬉しがって市民がついてくる時代ではないことを政治家・官僚・財界人は真剣に感じ取って欲しい。

(でも、荷宮和子が言うように、支配者は「愚民は愚民として差別し」たいのかもしれない。) 

2005/01/09

「災」から考える

「災」から考える


 阪神大震災の記憶も薄れてきていた昨年、まさに忘れた頃に台風、新潟県中越地震と立て続けに災害が日本を襲った。被災者数は阪神大震災よりも少なかったとはいえ、生活環境が激変する苦痛を多くの人々にもたらした。
そして、年末にインド洋沿岸に大規模な津波被害を引き起こしたスマトラ島沖地震。未だに被害の全容はわからないが、既に15万人が亡くなっている。たった数時間でこれほどの人命を失うような悲劇は、我々の想像力を越えるものだとも言えよう。しかしながら、多くの日本人が楽しいはずの旅先で被災していることを思うと、地球上のどこにも確実に安全な場所はないのだということも肝に銘じる必要がある。

 阪神大震災の後、僕たち被災地やその周辺地域に住む者は、その悲惨な現実の中にあって自らの生き方を考えさせられた。だが震災の年も終わろうとする頃には、首都圏に住む友人にとって、震災はドラマの過去の1シーン程度になっていた。
建築の仕事はイマジネーション豊かな感性で支えられていると思われているが、自分の経験以上の想像力を持つことは非常に難しい。僕たちは、謙虚に自らの感受性を広げる努力をせねばならない。感動は驚きと共にあるかもしれないが、驚きは常に感動をもたらしはしない。驚きばかりを追求する建築は、津波の中に簡単に飲まれてしまうであろう。人の命を守り、生活に彩りを与え、健康な心身を保てることは芸術の条件ではない。それは、人間の最低限約束されている権利だ。その最低条件を満たした上で、人々に何か希望を与えられれば、人の心に残る時流に流されない建築となるように思うのである。

 最後に、スマトラ島沖地震・津波で亡くなられた人々に哀悼の意を表します。そして、復興への第一歩が素早く踏み出せますよう心より願っています。 

2005/01/05

最近はやりの「WEB設計コンペ」

最近はやりの「WEB設計コンペ」


 最近、WEBコンペという設計スタイルがその地位を確立してきている。数年前にこういったシステムが始まった頃には、建築主が顔の見えない設計者に信頼を感じることができるのかどうかが、大きな問題であったように思う。だが、インターネットが社会に抵抗無く受け入れられるようになるにつれ、インターネットに信頼感を持つ人達が増えてきたのだろう。また設計者側も、近年は仕事が少ないために、かなりの労力を割いて応募するようになっている。それゆえに、建築主側にとっては良い案に巡り会う確率も増えているのかもしれない。

 私の所にも、WEBコンペを開催している所から案内メールが良く送られてくる。多くの建築主は住宅メーカーではできない「自分の意志を込める」ことができる住宅を求めているようだ。だが、参加している設計者もまた、自らの思いを住宅に込めるのであり、決してそれらが一になることはない。たとえ近い考えに出会ったとしても・・・。それゆえ、実際に案を選ぶに際して、設計者との詳しいやり取りをしないで本当に良い案に巡り会えるのか? という疑問がわく。逆に、住宅を建てるということが、案の良し悪し以上に納得するプロセスの中にあるのであれば、コンペというスタイルを取らなくても良い事になる。WEBコンペとは、所詮はお見合いみたいなもので、設計案は釣書なのか?

 家を建てることに決まった方法はないのだから、こうしたコンペも一つの方法だとは認めよう。だが、『「人と違う家!自分たちの理想の住まいに住もう!」という“熱き想い”から今回の家創りをご計画されました。そんなご夫婦の理想の住まいとは、「住宅系のTV番組が取材に来るような、建築家らしいハイセンスな家」』などという謳い文句で募集をかけてくる建築主やWEBコンペの主催者に対して、私自身は違和感を感じる。そして、多くのコンペ建築主が、これほどではないにしろ、心のどこかで渡辺篤に来て欲しいと考えているのではないだろうか。住宅が自分のものであることを、メディアによってしか確認できない心性は、まさにネット社会の縮図であり、ネットを通じたWEBコンペでこそ満足感が得られるのかもしれない。 

2004/12/29


OTAKU ヴェネチアヴィエンナーレ建築展

OTAKU ヴェネチアヴィエンナーレ建築展


 2004年、ヴェネチアビエンナーレ第9回国際建築展の日本館のテーマは"OTAKU"であった。今回のコミッショナーを務めた森川嘉一郎についてよくは知らないが、公式カタログに彼が書いている文章を読んでみてその論があまりに単純な視点で書かれたように感じた。それは、1970年の大阪万博を最後に科学の発展による輝かしい未来像が失われてゆき、その喪失感で精神的打撃を受けた少年達の一部が趣味の世界にのめり込んでいってオタク化した、というものだ。だがその時代に少年時代を過ごしたものとして、そして趣味の世界へ向かったことを自認している僕としては、そんなに未来に期待もしたことはなく、逆に絶望したこともなかったぜと言いたい。だからアニメなどに現実を仮託して内向化していった者がオタクとするには無理があると思うのである。

 そもそも「オタク」とは同好の士が互いを呼び合うときの二人称から命名されたのである。実は日本語においては、どの様な二人称を使うのかは非常にデリケートな問題を孕んでいる。「君」「あなた」「おまえ」「自分(この言葉で始めて話しかけられた時、僕はどう反応したら良いのかとても混乱したのだが)」「お宅」。この中で「君」や「あなた」は文語的あるいはモノローグに多用される言葉であり、「おまえ」はその言葉が発せられる人間関係が限定的である。また、本来「お宅」は二人称と言うより、相手の家や家族のことを総称する言葉としてあった。その「お宅」が、個人主義的文脈の中で「オタク」と呼び合う関係を新に作り出したことは、「君」や「あなた」という常識的な二人称が支配する世界を無意識的に拒否し、新しい関係性を表現しようとしたと考えられよう。

 このように考えてみると、オタクは科学技術や経済やファッションなどに影響され揺らいでいる常識社会から身を離し、[情報を遊ぶ]というインターネット社会を先取りする形の生活スタイルを築き始めたとも言えるのではないだろうか。それは決して傷をなめ合う者同士の集まりなどではないのである。

 だが、やがてオタクは世間に認知されてゆくのだが、それはとりもなおさず一般社会の内部に取り込まれていったことを意味する。簡単に言えば、資本主義社会による経済活動の一部に組み込まれたということだ。森山嘉一郎は現在の秋葉原について、オタクの部屋の意匠が都市化した新たな空間の誕生と言っているが、そんな大袈裟なことではなく、オタクの情報がコミケなどを通じて商業的価値を高めていっただけなのではないか。確かに商業的成功は、文化性を持っていなければ成し得ないことも事実であり、オタク文化が世間に影響を持ち始めたことも否定できない。だが、オタクが築き上げてきた新たな価値としての[情報を遊ぶ]文化は、多くの追随者を生み出すことで、逆にオタクと一般人の境界を曖昧にした。結果、享受者=消費者としてのみオタク文化に入り込むことも容易になったのである。こうした状況を考えれば、ヴェネチアビエンナーレのメジャーなテーマになり得るということが、オタクの創造的な核の部分を蝕んでいくというジレンマを示しているとも考えられるのではなかろうか。 

2004/10/23

ヒロシマ

ヒロシマ


 本来、聖なる場所-Sanctuary- とは、人間の精神が人間を<超越したもの>に触れる事が出来る場所である。そのような超越の感情を組織化するのが宗教であり、一般の人々にもに自己の奥にすばらしいものが眠っていることを気付かせてくれる。その意味で、世界中の多くの聖域は人間性の肯定(正)の場であるとも言える。

 一方、人間の歴史は闘いという、人間の持つ心の闇の歴史といっても良いだろう。そして、そうした負の聖域と言える場所はアウシュビッツやヒロシマだろう。今回始めて広島平和公園を歩いてみて、土地に刻み込まれた深い闇は、全人類の未来への灯ではないかと感じた。それはなぜか?

 一般的にこうした悲劇は特異なものと思われている。しかし、我々の世界は、常に愚かしい人間の闇に支配されており、悲劇こそが常態なのかもしれない。そして、我々が為した過ちへの深い悔恨こそが、未来への導きなのだ。そこには勝者はいないし、被害者・加害者の区別もない。ヒロシマはそんな事実に我々を目覚めさせてくれる聖域なのである。 

2004/02/01

金儲け+文化=六本木ヒルズ

金儲け+文化=六本木ヒルズ


 森ビル社長が週刊誌のインタビューで話をしていたのだが、六本木ヒルズでは都市開発に際して文化的側面を重視したと言うことだ。従来から、効率重視の都市開発には疑問を持っていたそうで、今回は内外のデザイナーやアーティストによるハード部分だけでなく、美術館や映画館、さらに様々なイベントというソフト部分にも気を使っているらしい。そのおかげか、オープン以来予想を上回る人数の来訪者があり、結果的に経営的な成功を収めているわけである。
 しかしながら、いくら文化を中核として考えたとしても、企業の経済活動である以上儲けが無ければ事業として成立しない。それゆえ、こうした文脈で語られる文化というのは付加価値でしかない。良く言えば、一時もてはやされた企業メセナ的な活動ではあるが、実のところ金儲けのための客寄せパンダ(パンダさんごめんなさい)である。

 そもそも、文化って何だろうか?音楽(坂本龍一のランドソング)や美術(村上隆のキャラクター)とのコラボレーションが文化なのか?人々が創りあげるものが文化であることは間違いない。しかし、文化がそこにあるとは、文化と名付けられた「モノ(作品)」があることではない。人々を集めるものが文化ではなく、人々が集まってなされる何かが文化なのである。建築はそのような文化創造の触媒たる場であり、そこで生まれたモノは事後的に「美術」や「音楽」といったカテゴリーに分類されているにすぎない。

 現在、我々は、情報化により時間や空間をこえてモノを等価に見るようになってしまった。そこでは、地域性や歴史性が呼び起こすモノの聖性が失われてしまう。時間により淘汰されたモノが優れたモノという従来の世界観が転倒される。その結果、人を集めてモノが売れる場を造ることが永続性につながることになる。
 表題の等式は、六本木ヒルズだけにあてはまるものではない。永続性を、つまり儲け続けることを考えれば人を集めなければならない。そのために何をするか?その一つの選択肢が「文化」を提供することであり、金儲けというどこか後ろめたい気持ちを払拭してくれる。消費者にしても、買わされていることを忘れさせてくれ、自らの選択のセンスの良さを保証してくれる「文化」は都合がいい。そして、こうした企業=消費者という共犯関係は、現代社会においては経済活動の場面だけに限らない。政治家=国民、教師=学生・・・同様の共犯関係には事欠かない。だが、このような世界にあって建築にも少しは生き残る可能性があるとすれば、こうした共犯関係の欺瞞を撃ち続けることだろう。たとえそれが道化だとしても。 

2003/12/31

近頃 都で流行るもの

近頃 都に流行るもの 「景観守れと」叫ぶ声


 - 京都における景観論争 二題 -

 京都における景観論争は「京都的」なものを巡る言葉の闘いである。ある者は近世の京都に「京都的」なるものを見いだし、ある者は明治期の京都に、そしてある者はまだ見ぬ未来に「京都的」なるものを見いだそうとする。しかしながら誰も現在の京都を容認しようとはしない。確かに、現在とは過去と未来の接点に存在する一瞬の泡沫の点なのだから、それらは常に過去にあり未来にあると言っても良いだろう。だが、こうした哲学的な時間論は脇に置いておいて、僕たちの実感としての「現在」を考えてみると、現時点を中心とした数日ぐらいのことであると思う。この「現在」の視点から見る実生活者としての「京都的」なるものを判断基準にした景観論というものは構築できないのか?それこそが歴史論や意匠論といった帰納的に構築された「京都的」なるものをうち破る第一歩ではないかと思うのである。

 そこで、昨年、今年と巷をにぎわした二つの景観論争について考えてみよう。

 一つは鴨川にかけられようとした「ポン・デ・ザール」のレプリカである。経緯をざっとおさらいしておこう。96年11月にフランスのシラク大統領からこの提案を受けた京都市の桝本市長は、よっぽど嬉しかったのか12月には予算も付け実現に向けて前向きに活動を開始した。しかし、京都市民だけでなくフランスの知識人や留学生からの大反対運動を受け、2年後の98年8月にフランス大使館にお断りに行くことになったのである。

 当初から、鴨川に架かる橋がなぜ「おフランス風」でなくてはいけないのかと言うことが論争の中心になった。おきまりの景観論争である。まあどこから見ても「おフランス風」は「京都的」ではない。現在でも鴨川の川縁の町並みは昔の情緒を破壊し続けている。さらにこれ以上行政が主導になって破壊するとは何事か?橋が必要だとしてもそれはもっと考えてから決めて欲しい。それが多数の意見であったように思う。しかしながら、京都の景観が「ポン・デ・ザール」を中心にフランスのエスプリを吸収し、世界にまたとない魅力的な町にならないとも限らなかったのではないか?新たなジャポニズム文化を全世界に発信することができたかもしれない。こんなことを言うと反感を買うかもしれないが、景観論だけの視点では未来に続く歴史に対し、後者のような意見に決定的反論をすることはできないということだ。

 むしろこの時問題にすべきであったのは、京都の桝本市長とシラク大統領の文化に対する品位のなさである。もし、京都の桝本市長が「京都とパリは姉妹都市だから、セーヌ川に渡月橋をおくりましょう」と言ったとしたらどうだったであろうか?シラク大統領は、とんでもないと思いながらも「パリと京都は独自の文化をもっているからこそ世界の文化都市なのです」という程度でやんわりと断ったであろう。つまり、こういう認識を京都市の長たるものが持っていないということが京都市民にとっての不幸なのである。結局、桝本市長は文化の「ぶ」の字は知らないが「金」に見えるというそこいらの政治家・官僚と同じであったのである。だから、「何たっておフランスの大統領のお言葉は天のお言葉」みたいに感じたのであろう。

 その点シラク大統領は、日本文化がヨーロッパ文化と違う根を持っていることぐらいは百も承知である。だが、フランスはナポレオンの出た国。その長たる権力はパリの町を有無をいわさず大改造してしまったくらいなのだ。(これはナポレオン三世の時だけれども)その結果の善し悪しは問わないが、パリに漂う権力臭はこういうところから来ているように思う。その末裔たるシラク大統領が、極東の小島の一都市に対して文化的征服者然となることは至極当然のことのように思われる。だからこのように自らは受け入れるはずもない言葉を投げかけたのである。ここに、シラク大統領のお里もしれてしまったというものだ。

 こういう行政の長の文化的な態度に対して何故批判がなされなかったのか?見えているものの批判に終始するするしかない景観論では、未来へのヴィジョンなど出てはこないのである。

 そして、最近メディアを騒がしている問題は、京都の老舗旅館「俵屋」東隣に建つマンションの問題である。

 京都の町屋は裏同士で違う町内に属している。俵屋の玄関側の道沿いには同じく老舗旅館の「柊屋」があり、町並が比較的整っている。しかし、裏側の町内は、都市計画上は中層建築物を建てても良い地区であることから、高さ10メートル内外の建築物も多い。俵屋東隣の土地所有者も相続税などのこともありマンションを建造しようと考えた。ところが、その建物ができると俵屋の売り物である庭の景観が台無しになってしまうから、俵屋側は文化人を巻き込んで反対運動を起こしたのである。

 俵屋は老舗旅館であるから、各方面の文化人が京都に訪れたときに宿泊するらしい。反対運動に署名している文化人はそうそうたるメンバーであるから京都の町における景観問題としてメディアも取り上げたのである。賛否両論は常であるが、世界的な建築家の磯崎新が要望書なるものを京都市に出すに及んで、この京都に在住していない文化人のみなさんはいったい何を考えているのか、と言う疑問が沸々とわいてきた。

 村松友視が書物を書こうが書くまいが、町屋建築を支える技は京都の職人が伝えている。特に俵屋だけがそのパトロンであるわけではないのである。俵屋に泊まったこともない一庶民のひがみかもしれないが、結局は一旅館の営業に支障をきたすということにすぎないのではないか?確かに庭の前に巨大な壁が立ちはだかることはマイナスである。京情緒を楽しむために宿泊する人々にとっては興ざめであろう。しかしこの問題は「営業妨害」の問題であり「景観」の問題ではない。もし景観や町並みと言うことを行政-京都市民の問題というのなら、その声に賛同を集めるために俵屋の守るべき景観を公開せねばなるまい。だが一泊何万円を出せる人々だけが恩恵を受けるような景観がなんの意味を持つのか?マンション建築反対運動を、コネを使って煽るような俵屋のやり方こそが批判されるべきであり、それに乗っかって喜々としている文化人の精神性の卑しさこそを批判するべきである。

 最後に述べておきたいが、僕は京都の町が無為に破壊されていくことに対して是というつもりはない。京都の景観を守るというのなら、現在の政治的・経済的・文化的状況がどのようであるかを仔細に調べた上で、行政的な権力を使うのなら使うで、大多数の市民が希望を描ける未来を提示して行うべきである。だが、官僚機構はただの手足なのである。従ってもっとも京都の文化的な問題に責任を持つべきは京都市長や市議会なのであり、そのような争点で京都の未来が審判される日が来ることを願ってやまない。

 それと最後に言っておきたいのだけれども、「俵屋」の女将さん。俵屋敷地北側にある建物は京都の町屋の景観を破壊してないと言い切れます? 

1999/12/07

新国立劇場は宝塚歌劇を超えられるか?

新国立劇場は宝塚歌劇を超えられるか?


 1986年のコンペから10余年、ようやく新国立劇場がオープンする。本格的なオペラハウスを日本につくるというバブル期の熱病が醒めてしまった現在、はたしてこの劇場がうまく機能してゆくのかに疑問を感じてしまう。隣地で共同開発した民間の複合施設が「東京オペラシティー」というのに、「新国立劇場」というネーミングに決められたのも、私には皮肉というより官僚の姑息な言い訳のためとしか受け取れない。

 そもそもこの建物は、オペラを文化事業としてとらえ、日本の国が全面的にバックアップしてゆくためにできたのではなかったか?少なくとも、ミラノやウィーンのオペラを公演させることが主要な目的ではないはずだ。そのために、ここは歌手やオーケストラだけでなく、大道具・小道具・衣装といった舞台美術を含めた総合芸術の発現の場でなくてはならない。しかし、現在日本でこのようなシステムを確立しているのは宝塚歌劇だけである。一企業がこのような歌劇団を運営していることは驚きであるが、なにより多くの観客を惹きつけ、1938年にはヨーロッパ公演まで行い、東京と宝塚で同時に公演をうちさらに地方公演までも行うというその運営能力は、クラシック界も見習うべきではないか?

 顧みてこの劇場は如何なる使われ方をするのか?運営は一体どの様になるのか?オペラシーズンになれば、様々な演目を自前で公演してゆくだけの人とお金を用意できるのか?こう考えたとき「国立歌劇場」という名前をこの建物がつけられなかった理由がわかるような気がする。そもそも、最初から及び腰なのだ。残念ながら、現在日本人はオペラを本当に楽しめる環境にない。しかし、オペラがもっと気軽に楽しめれば、その文化的価値も国民に認識されてゆくことだと思う。この建物には、総工費745億円という巨費が投じられているのである。堂々とした態度で運営に向かわなければ、日本各地に「箱モノ行政」「補助金行政」の結果、雨後の竹の子のようにできた多目的ホールという名の無目的ホールと同じ運命をたどるような気がしてならない。 

1997/08/19

水平社歴史館を問う

水平社歴史館を問う



 日本の主要新聞は建築計画を伝える場合、建築主としての公共団体や企業の名前は報道するが、ほとんど設計者の名前を報道しない。例外的があるとすれば、そのプロジェクトが何か胡散臭い(関空での贈収賄の時のような)場合か、デザイナーが外国人である(東京フォーラムの場合のような)場合である。そのことの社会的な影響については、別に筆を執らねばならないが、今回「水平社歴史館」のことを述べるに当たって設計者がわからなかったことを最初に断っておきたい。今回のコラムに関する情報は、産経新聞の記事と完成模型の写真によっている。

 建築を構想するとは、物理的・機能的・社会的条件を考慮し、その建築にとってもっとも良い「形態」を模索することである。この場合の「形態」とは、表層に現れた意匠だけでなく、その建築により形成される概念といったものまでも含めた意味としてである。もっとも正しい「形態」を導き出すべく建築家は苦労するのだが、そうしてできた建築が、はたして、正しく構想を実現しているのかどうかはわからない。それらを測る統一した基準などどこにもないからである。つまり、解かれるべき問題には多くの解が存在するのであり、歴史的時間の中での存在としてしか、建築は自らの正当性を主張することができないのである。しかし、価値の相対性ゆえに「何をしても良い」ということにはならないだろう。そして、その事は、「それはしてはいけない」ということを考えることにより炙りだされてくる。

 奈良県御所市で行われた「水平社歴史館」の起工式の記事とその完成模型写真とを新聞紙面で見たときに、僕は「これは何か違うんじゃないか」と感じた。その理由は、僕自身が「水平社」「部落問題」について知っている知識と記念館の意匠との齟齬にある。不浄の輩として歴史の中で差別されてきた被差別部落民が、自らの手で解放を勝ち取るために創立したのが「水平社」である。まさに、彼らの解放の戦いの矛先は一般社会、特にその社会を司る権力機構としての政府や行政に向けられていたはずである。明治・大正期において多くの洋風建築がそういった権力機構の象徴として建てられたことを考えれば、このような意匠性を纏わせることは否定されるべきではなかったのか?

 いや、当時の権力に対峙するものを現在の運動が勝ち得た象徴としてこの意匠を選んだのだと反論があるかもしれない。だが、人権思想とは、互いの集団が権力を行使し合う事ではないはずである。西光万吉の「水平社宣言」はこう述べているではないか。

「・・・人の世の冷たさが何んなに冷たいか、人間をいたわる事が何であるかをよく知っている吾々は、心からの人生の熱と光を願求礼賛するものである・・・人の世に熱あれ、人間に光りあれ」

 だが事実は、歴史館=歴史性=創立された大正期の古い意匠=洋館の意匠  という単純な論法でこの意匠が決定されたのではないだろうか。おそらく、この建築が商業建築や事務所ビルや自治体の公共建築物であったらなんの問題もなくひとつの意匠として受け入れることができるだろう。そこでは、純粋に建築や都市の問題としての批評がなされよう。しかし、「水平社歴史館」とは建築の思想性をはるかに凌駕する人間社会の思想によって存在する厳しい建築なのである。にもかかわらず、そのことが建築界で語られないのは、建築界の現在の状況を暗示している悲しむべき事であるように思う。

1997/05/01

横浜港国際客船フェリーターミナル

横浜港国際客船フェリーターミナル


 ひとつの建築が、いかなる考えで構想されたかを知るのは興味のあることだ。それは、建築にたずさわる者だけでなく、理念と物との関係について関心のある者なら、常に目の前に突きつけられる問題でもあるからだ。

 横浜港国際客船フェリーターミナルの設計コンペにおいて ザエラ=ポロ&ムサヴィが独自の設計理念でその形態を示したことは、僕自身にとって「建築」というものを再考する良い機会となった。彼らのこの建築に関する主張を聞いてみよう

ザエラ=ポロ:
    形態はそれ自体に機能的な理由があるのであって、建築固有の古典的コードやスタイル、政治的ハイラルキーにはよるべきでない。形態は多くの人や物が、まずどのように移動するのかによるのだ。*1 




ムサヴィ:
    プロジェクトはすべて、この形がこうだ、プロポーションがこうだという美的判断からではなく、条件や動線計画など内的要因にもとづいている。*2 

 この言葉通り、彼らは、建築に関わる諸条件をコンピューター処理する事で、建築の形態化を行っている。それは、形態決定に人間の美的基準を導入しないという考えにおいてである。しかし、果たして現実の建築物が立ち現れるときに、まったく人間の意志の関与なく決められたアルゴリズム通りに存在させることなど可能なのであろうか?

 また、「地盤面の延長としての建築」ということも彼らは言っている。このことは、「地盤面」と「建築」が同一のある性質を共有しているという前提が必要となるが、それは一体何なのだろうか?

 地盤とは、既にそこに存在している非−計画的な存在ではないのか?そのような問いに対して、彼らはこのように答えるだろう。自然現象は、我々が処理不可能な多変数により記述される高次方程式なのであるから、諸条件を変数とする方程式で記述できる建築もまた、同一の構造を持っていると考えて良い。

 彼らはおそらく、複雑系のシステム論を方法論として取り入れている。世界共通の基底をどのように認識するかという点で、複雑性についての研究は、形態の分類に終わった記号論的なアプローチよりもより本質的であるかのように思える。しかし、複雑系のシステムの存在は、なんら法則性がないかのような事象が、ある非線形の方程式のパラメーターの相違が複雑な形態を生み出すということを意味するにすぎない。つまり、我々の周囲に起こる予測不可能な事象は、ある非線形方程式によって分類可能だということである。

 確かに、自然現象が我々の認識を超えたものであるという諦観に対して、人間の世界認識を広げる可能性を持つ理論としてエキサイティングではある。しかしながら、現在のところ、自然現象の持つ複雑性のパターンがこれら非線形方程式の振る舞いにある部分似ているという帰納的な判断以上のことは言えない。また原理的に見ても、無限のパラメーターの組み合わせや初期値を持つ非線形方程式を、自然現象の完全な予測に利用することは不可能であろう。このように考えれば、「地盤面」と「建築」は、パラメーターの多少ではなく、創造する主体が違うという点においてまったく違った位相のものである。

 では、思想と建築の関わりはどうなのか。彼らは次のように答えている。

ザエラ=ポロ:
    プロジェクトが、どんな哲学的な概念を表明しているわけではなく、あくまで機能的要求や構造的要求に基づいて考えられている。これはとても重要なことで、私達は理論的にはあるところに影響されているかもしれないが、ドゥルーズの思想を形態化したものでは決してない。*3 




ムサヴィ:
    ドゥルーズを参照してプロジェクトを理論的に説明することができるので、理論的興味として切り離すことはできない。(中略)哲学的理論は、その後のデザインやプランニングを説明する際に参照しうるということです。*4 

 確かに、思想の形態化など純粋に行えるはずはない。思想の場と建築の場とはまったく違ったものであるのだから。そもそも思想によって語られることを、わざわざ建築によって語る必要などどこにもない。とすれば、思想と建築を媒介させるためには、何らかの論理的な方法を設定せねばなるまい。それでは彼らの方法はいかなるものか。

ムサヴィ:
    おそらく、記号論的な方法はある時点でうまく機能したが、大量の情報があり、多民族による多文化がうずまく現在には、もはや有効ではない。どの都市も、もはや単一で固有なシニフィアンで建設されえない。私達は共通の言語や固有の文化的背景を持ちえないのだから、言語学的な手続きをしながら、都市を構築できるはずもないと思う。*5 




ザエラ=ポロ:
    面白いことに、違う文化的背景を持った人々がどんどん多くなって集まっている。だから言語学的にコードを信用するわけにはいかない。なぜなら、あなたの教育とはまったく私の教育と違う。だから、過去によらない方法をさがしださなければならない。差異に依存することはできないのだ。*

 彼らは現在の世界を分析することで、その方法論を構築している。その思考の流れはこうだ。

<世界は、もはや言語的にも形態的にも共通のコードを持ちえない。したがって、この状況で多民族・多文化が共通の理解を持つためには、過去のシニフィアンでは不十分だ。それでは、新しい共通の場を創造するのは如何にすればよいのか。それは民族や文化に頼らない方法であり、かつ、我々の世界を支配する根元的な法則に則った方法によるのだ。>

こうして、選択された方法は、純粋に数学的な方法である。それは一見、価値判断を伴わない科学的な方法に見える。しかし、そのような思考自体も、人間の歴史性の中で生まれでてきたものである以上、まさに特定の文化の一部なのである。

 かれらの、思考方法はあまりに単純すぎる。そして、どこかで見た論理展開である。そう、マルクス主義である。人間の世界が科学的に説明可能で未来を予測できうると、多くの知識人を魅了してしまったあの思想である。方法論はより複雑化したシステム論を纏ってはいるが、その根底に流れる「知」への信仰は同等のものではないだろうか。

 こうして考えてみると、我々の思考は常に危険をはらんでいることがよくわかる。人間の主体性とか自由とかを声高に宣言する思想が、その同じ人間を抑圧し差別する思想となりうるということ。我々は、たかだか建築を創るためであるけれど、思想する事が常に危険の淵を歩いていることに留意する必要があるだろう。

*1〜6 GA JAPAN ザエラ=ポロ&ムサヴィインタビューによる

1997/02/14

世界教会建築賞?

世界教会建築賞?


  数カ月前のことだったが、建築家 安藤忠雄氏がイタリア ミラノにある”フラテソーレ財団”というところから。「世界教会建築賞」なるものを授与されたとい記事が新聞に載っていた。数多くの賞を受賞されている安藤氏のことであるから、ニュースとしてはそれほど大きく取り扱われなかったと思うが、その受賞作品が、「風の教会」「水の教会」「光の教会」と氏がよばれている三作品ということで、僕は少々違和感を持った。それは、安藤氏のこれら作品の良し悪しに関してではない。むしろ、おやっ、と感じたのは、選定したイタリアの財団に対してである。

 「風の教会」「水の教会」「光の教会」の三作品は、確かにキリスト教の礼拝用の建築ではある。しかし、地域の信者が集う教会-chiesa-としてつかわれているのは、「光の教会」と呼ばれている建物だけである。「風の教会」は、神戸のホテルの、「水の教会」は北海道トマムのリゾートホテルの結婚式用の礼拝堂である。確かに、結婚式の場には牧師が来て、キリスト教(この場合はプロテスタントであろう)の儀式に則って式が行われるであろうから、これらを宗教建築でないとは言い切れないかもしれない。だが、それは日本に於いてだけの話である。カトリックの総本山のバチカンのお膝下であるイタリアでは、決してこのような結婚式場は教会とは呼ばないはずである。

 僕は、イタリアの財団の関係者が、誰かが推薦した安藤氏の作品集だけしか見ずにこの賞を決定したのではないかと思う。いや、むしろ、そうであって欲しいと願わずにはいられない。もしそうでなければ、僕の愛するイタリアの文化が、崩壊しはじめていることになるのだから。人は、決してパンのみで生きるのではない。その人をはぐくんだ町や国の歴史ある伝統があるからこそ、人は精神的なる充足を感じることができる。イタリアに於いて、人々の絆の基本であり続けた教会が、物質化した建築物でしかないということであれば、人々の心もまた、物質しか見えなくなっているのかも入れない。

メリー クリスマス 

1996/12/15

ル・コルビュジエ

ル・コルビュジエ


 現在、ル・コルビュジエの回顧展が開催されている。彼は、良きにしろ悪しきにしろ、モダニズム建築の神様と思われている。しかし、僕は、ここでモダニズム精神のことを云々しようとするつもりはない。僕が、この回顧展で感じたことはもっと別のことなのだ。

 回顧展では、アールヌーボーからピュリスム・ブルータリズムを経て、生命への回帰というような流れで展示が行われていた。確かに、装飾を批判し近代建築の五原則を発表した彼は、19世紀の様式建築とは遠く離れた位置にいる。しかし、彼はモダン(現代的)だったのではない。様式建築がたどり着いた地点から、人間の精神の歴史を遡行し始めたのである。そのように考えてこそ、彼の絵画と建築の関連性が理解できる。そして彼は、やがて非人称たる「非-知」の根底にまでたどり着いた。いや、常に人間の「非-知」なる力から霊的インスピレーションを得ていたからこそ、ル・コルビュジエの建築はどのようなレッテルを貼られようとしても、我々に深い感動を与えるのだ。 

1996/11/01